カニンガムは、後にフォト・セセッションのメンバーになったアメリカの女性写真家ガートルード・ケーゼビア(Gertrude Kasebier)の作品に魅せられて写真の道に入った。1901年、シアトルのワシントン大学で写真化学を学んだ後、自身も写真を撮り始めた。ドイツ留学の後1910年にシアトルに自身のスタジオを開設。
彼女は有名人の率直なポートレート写真、花のクローズアップ写真、ヌード写真などのシリーズで知られている。いずれも光と影の強いコントラストからなるモノクローム写真で、対象の個性、造形の美しさや抽象美を浮き彫りにしている。彼女の女性ヌード写真は性的興味から離れ、同性の目から見たモデルの個性、肉体の親密さや官能性をあらわにしている。1920年代後半、彼女は今日でも高く評価されている「植物」のシリーズを開始している。
カニンガムは西海岸でストレートフォトグラフィを標榜したグループf/64の創設メンバーでもあった。
「作品のなかでお気に入りはどれかですって? 明日撮影する写真よ」
アンセル(・アダムス)が誰かに話したことがあります、「私(カニンガム)はいろいろなジャンルの写真が撮れる」と。しかし、本当は私があちこち飛び回ってばかりいると言いたかったのです。私は一箇所にあまり長く留まることに満足できません。山に行っても長期滞在できないし、森に行ってもそう、川でもそのうち飽きてしまう。しかし人間のそばならずっといられます、彼らは本当に一人一人違っているから。
あるとき、ストリート写真を撮っている女性が私に言いました。「私は路上で誰かを撮影するときは必ず一声かけているわ」。私は言いました、「カルティエ=ブレッソンが水たまりを飛び越えた男にもう一度やってくれと頼むかしら。絶対同じようにはならないはずよ。盗むことを始めなきゃ!」
一人の女性がはじめて私のモデルになったときにこう言いました、「あなた、私の顔のよくないほうばかり撮ってるわよ」。私はこう答えました「あら、悪いほうなんてあるの?」
私はハリウッドで撮影の仕事をするよう招待されました。彼らはどんなものを撮りたいか尋ねました。私は答えました「醜い人々よ」。
人間は生きる環境、その手段によって影響を受ける。
私はアートに接しながら育ちました。父は私には芸術の才能があると思い、アートスクールに入学させました。しかし写真家になってほしいとは思っていなかったのです。
アメリカに戻った後、科学の分野では落ちこぼれ同然だった。私は写真が撮りたかった。
私は光が当たるものなら何でも撮影します。1920年代に植物を撮った理由は、私には4つにもならない子どもが3人いて、子育てに追われて家に閉じ込められていたからです。家には庭があったので、そこの植物を室内で撮ったんです。その後、自由になり、ほかのものも撮るようになりました。
愛が何を意味するか私にはわかりません。
サンフランシスコは気楽な生活を送るには世界で最高の場所だと思う。
私は貧しかった。貧しいと、人は自ら仕事をするものですが、お金持ちになると誰かが自分にもたらしてくれると期待するようになるのです。だから、貧しいということは人間にとってとてもいいことだと、私は思いますよ。
写真を学ぶことばかりにかまけて、全然作品を作ろうとしない人が本当にたくさんいます。作品を作るための方式は人に教えられるものじゃありません。自分で最初に確立しなければ。学ぶことはできないのです。もっとも重要なのは「見る目」です
他人に写真を教えるなんてことができるとは思えません、せいぜい少し影響を与えるぐらい。人は自分で学んでいかなくては。ある種の才能を持っていなければならないのです。
Imogen Cunningham: 1883-1976 (Photobook)
カニンガムの代表作を集めたベスト版的写真集。植物、ヌード、ポートレートなどカニンガムが取り組んだすべてのジャンルを網羅しています。
Imogen Cunningham: Ideas without End A Life and Photographs
未発表を含む100枚の写真と伝記、エッセイ、年代記、図書目録などをまとめた素晴らしいコレクション。