ドキュメンタリー写真の異才、ダイアン・アーバスは1923年にニューヨークの裕福なユダヤ人家庭に生まれました。父親はニューヨークの高級店が立ち並ぶ五番街に店舗を構えるデパートの経営者でした。14歳のとき、父の経営するデパートでスケッチの教室に通うことになり、そこで当時19歳のアラン・アーバスに出会いました。ダイアンはすでに非凡な絵の才能を発揮していましたが、その絵も止め、18歳になるとすぐアランと結婚しました。アランは写真学校に通い、ダイアンは助手兼スタイリストとしてふたりでチームを組んでファッション写真の仕事を始めるようになります。アーバスの父親はふたりに自分のデパートの広告写真を依頼し、共同でファッション写真を手がけ、やがてヴォーグ誌やグラマー誌で活躍するようになります。
その後ふたりはコンビを解消、ダイアンは写真家リゼット・モデルに師事しました。リゼット・モデルは当時アメリカで最も有名な写真の教師でした。そのモデルに励まされて、ダイアンは子どものころから直視するのを禁じられてきた人や場所を記録し始めます。両性具有者、身体障害者、服装倒錯者、双子、小人、施設に収容されている人……。
ダイアンの写真は雑誌「エスクァイア」誌に掲載されるなど、次第に評価され始め、1967年にはニューヨーク近代美術館で開催された「ニュードキュメンツ」展(ジョン・シャーカフスキー企画) にリー・フリードランダー、ゲイリー・ウィノグランドとともに選出されて注目を集めました。
こうした活動の一方で、アーバスは以前から慢性的な鬱病に苦しめられていて、肝炎をも患い、精神的に追い詰められていきました。
1969年になると、別居していた夫アランと正式に離婚、別居中も精神的に経済的にダイアンを支え続けていたアランでしたが、若い女優と再婚し、ハリウッドに移って俳優の仕事に本格的に取り組むことになったのです。
孤独への恐怖、慢性的な鬱病、自分の仕事に向けられる評価と敵意。
1971年7月26日、自宅の浴槽で死亡しているダイアン・アーバスが発見されました。自殺でした。翌年秋にはニューヨーク近代美術館で回顧展が開催されました。
愛とは理解と誤解とが理解しがたいほど奇妙に組み合わされたものです。
心のなかでどう感じているかに関係なく、常に勝者に見えるよう努めなさい。たとえ現実には負けていても、自制と自信に満ちたふるまいを維持することで精神的優位をもたらし、いつしか勝利へと導くのです。
不器用なわたしが仕事をしているわけです。そのため私は器用に物事を整理するのが好きではありません。何かを目の前にして、それを都合よく整えるかわりに、わたしは自分自身をそちらに合わせてしまいます。
子どものころお母さんに言われたものです、「ゴム長靴を履きなさい、風邪ひくから」。大人になったとき、あなたは気がつきます。ゴム長靴を履かないで風邪をひくかどうか確かめる権利があなたにはあることを。そういうことなのです。
この世界には私が撮らなければ誰も見たことがないものがあるのだと信じています。
私は常々、写真を撮るのはお行儀の悪いことだと思っていました。写真に関して気に入っている点のひとつはそれなのです。初めて撮影したとき、私は道を踏みはずしたような気分になったものです。
自分の思いどおりに写真が撮れたことはありません。いつでもそれ以上か、それ以下の写真ができあがります。
知っておくべき重要なことは、人は何も知っちゃいないということ。暗闇を手探りで進んでいるようなものなのです。
私が好きなのは今まで行ったこともない場所に行くことです。
Diane Arbus: An Aperture Monograph
生前には自身の写真集が出版されることはありませんでしたが、ダイアン・アーバスが亡くなった翌年の1972年に刊行された写真集で、ニューヨークの近代美術館で開催された回顧展との協同で出版されました。アーバスの代表作です。
Diane Arbus Revelations
死後30年を経て開催されたサンフランシスコ近代美術館での回顧展の図録として、刊行されました。未発表作を多数含む約200点の作品、カメラ、手紙、日記など、 彼女の生涯についての詳細な資料も収録されています。
Diane Arbus: Magazine Work
雑誌に掲載されたポートレートの作品集。1950年代を代表するブロンド女優ジェーン・マンスフィールドや作家ノーマン・メイラーなどの有名人や一般人あわせて100人以上の肖像が並ぶ。写真に添えられたアーバスのエッセイも必読。文章家としても鋭い才能を感じさせてくれます。